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木版画とは
木版とは、印刷用として木の板に文字や形象を彫刻して製版したものや、そこから摺られた印刷物のことをさします。木版には、木材から版木を取る時の向きによって、板目(いため)木版と小口(こぐち)木版に分けられます。浮世絵版画に代表される伝統木版画は、板目木版によって制作されます。
木版は、凸版という版種として分類されます。材料には和紙と水性顔料を使用します。この水性顔料を和紙の繊維の中にきめ込んで(摺り込んで)色を表現することが、木版の大きな特徴です。
これは木版だけに見られる特徴で、他の版種では顔料が紙の上に載っている状態であるのに比べ、木版の場合は顔料は和紙の繊維の奥深くまで染込んだ状態です。この和紙に染込んだ顔料が発する鮮やかで深みのある発色は、木版の一番の魅力と言えます。
木版画の歴史
木版画の技術は大陸から伝来したと言われていますが、伝来後千年以上にわたり様々な形で変化、発展していきました。特に江戸時代、木版画の技術は浮世絵の発展とともに、飛躍的な技術の向上と普及を遂げました。


「百万塔陀羅尼」
印刷博物館蔵
世界最古の木版印刷物としては、奈良の法隆寺に現存する「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」が知られています。これは、奈良時代、称徳天皇の発願によって作られ、延命、除災のための4種類の経典をそれぞれ木版で印刷し、高さ14センチほどの小さな塔に収めたものです。この塔は大量に制作され、法隆寺をはじめとする十大寺に文奉されたと言われています。この「百万塔陀羅尼」や「阿弥陀如来像摺物」などのように、当初木版は仏教の流布を目的とする印刷技法として主に使用されました。
「阿弥陀如来像摺物」
印刷博物館蔵
浮世絵版画の変遷 ―墨摺絵から錦絵まで―
江戸時代、幕府の安定と共に文化がめざましく発展し、多くの書物が木版によって印刷され、出版されました。これらの出版物は、仏教や儒学をはじめとした哲学書、医学書、教養書など学問的な書物を主に出版した版元・書肆問屋(しょしどんや)と大衆向けの娯楽的な書物である黄表紙、滑稽本、絵本、読本を出版した版元・地本問屋(じほんどんや)によって、制作出版されました。黄表紙などに代表される娯楽的書物は、文字や高度な漢詩文の素養がなくとも楽しめるようにと、簡単な文章の他に多くの挿絵が使われました。これらの挿絵が次第に一枚の絵として発展し、書物の一部としてではなく、純粋に絵を楽しむための一枚絵(いちまいえ)として出版されるようになりました。これが浮世絵木版画の始まりです。武家や貴族の注文によって描かれる狩野派などの肉筆絵画とは対照的に、庶民の日常生活に関わりのある題材をわかりやく描いた大衆向けの浮世絵木版画は、大衆文化の発展と共に大きく発展していきました。
墨摺絵(すみずりえ)
絵師による絵が書物の挿絵から一枚絵として独立した当初は、挿絵と同様に墨一色で摺られました。これは、複数の色を重ねて摺る技術が開発される前のことで、この墨一色で摺られた作品を墨摺絵(すみずりえ)と呼びます。代表作としては、菱川師宣の「吉原の躰」などがあげられます。
手彩色による浮世絵
墨一色の絵に物足りなさを感じた版元は、一枚絵の娯楽的な意味合いをより高めるために、墨摺絵の中に手で彩色を施すことを始めました。これは「ぬりえ」のようなもので、木版によって墨一色の線を摺った後に技術者の手によって数種類の色が彩色されました。この段階は、浮世絵のカラー化への第一歩と言えます。特に丹(たん)という絵具を使用した手彩色の浮世絵、丹絵(たんえ)は色が鮮やかで、墨一色の時代からの大きな進歩を感じさせます。丹絵の代表作としては、鳥居清倍「竹抜き五郎」などがあげられます。丹絵の他に、植物性の紅を主に使用して彩色した紅絵(べにえ)、膠(にかわ)分を多く含む墨を用いて、漆を塗ったように見せる彩色を施した漆絵(うるしえ)などがあげられます。

また、この時代の浮世絵の題材には主に「吉原」と「歌舞伎」が取り上げられています。 「吉原」と「歌舞伎」は江戸庶民文化の中心
であったことから、浮世絵が江戸の大衆文化と密接な関わりをもっていたことがうかがえます。
紅摺絵(べにずりえ)
人々のカラーの一枚絵への憧れは、木版画の技術向上に大きな影響を及ぼしました。人々はより複雑な手彩色の浮世絵を求めるようになり、これまでの木版による墨摺り+手彩色という工程では手間がかかりすぎ、量産が次第に難しくなっていきました。そこで墨摺絵と同様に、墨以外の色も木版によって摺る方法が考えられました。これが多色摺の始まりです。ただし数色を摺り重ねるうちに版のずれが目立つことから、この時点での多色摺りは墨以外の2色(紅・草)にとどめられました。このように墨+カラー2色(紅・草)によって摺られた作品を紅摺絵(べにずりえ)と呼びます。代表作としては、石川 豊信「中村喜代三郎 市村亀蔵 おきく 幸助」があげられます。初めて色が、手彩色ではなく版によって入れられ
た、多色摺の始まりともいえる段階です。
錦絵(にしきえ)
人々のフルカラーへの要望の高まりと共に、版元達も全ての工程を版で処理する多色摺の完成に向けて試行錯誤を繰り返していました。しかし、版による多色摺の工程で問題となったのが、色を摺り重ねるごとに生じる「版のずれ」でした。このずれを解消したのが、「見当(けんとう)」の開発です。見当とは版木の右下に付けられた鍵型のマークのことで、作品部分と同様に鍵型を版上に残すように彫り、摺師が版木を摺る時に紙を置く目安とするものです。この見当と呼ばれる鍵型のでっぱりは全ての版木に付けられ、摺師が毎回この見当に紙を正確に合わせて置くことによって、複数色の版をずれずに摺り重ねることが可能となりました。この形の見当が完成されたのは明和年間(1764-1772)と言われていますが、
この見当の完成が「錦のように美しい絵=錦絵(にしきえ)」を誕生させたのです。
わずか数センチの見当の完成が、この後のめざましい浮世絵の進歩発展、また様々な浮世絵師の誕生を導きました。見当を誕生させる一つの大きな原動力になったのが、明和2年(1765年)の絵暦の大流行であると言われています。当時、江戸では太陰暦が使われており、「大の月」と「小の月」を確認するために暦が広く使われていました。中でも好事家は独自の絵暦を作るにあたって、制作費用などを気にすることなく一流の材料と技術者を駆使しました。この好事家によるコストに縛られない投資が、見当の誕生と木版の技術を一気に高めたのです。

絵暦(えごよみ)の代表的な作品というと、鈴木春信(すずきはるのぶ 1725?-1770)の「夕立」があげられます。この作品は、竿に干してある浴衣に「大 二三五六八十 メイワ二」と書かれていることから、明和2年の絵暦であることがわかります(明和2年の大の月がちりばめられている)。単なる暦としてだけではなく、作品としての完成度が高いことでも有名な作品といえます。鈴木春信は、見当を完成させた人とも言われ、「錦絵の祖」と呼ばれています。

鈴木春信による錦絵の誕生以後、鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重をはじめとする多くの絵師が出現し、数多くの浮世絵版画が作られました。これらの浮世絵は、江戸大衆文化と並行して発展したといえます。また浮世絵の発展により、それを作り出す木版の技術も大きく進歩しました。より高い完成度を実現するため、制作工程は絵師・彫師・摺師の三者による分業制とされました。この三者の高度な技術が絡み合うことによって、世界でも類を見ないほどレベルの高い印刷技術が実現したのです。浮世絵は、単なる印刷物の範囲を超えて、日本を代表する美術品として海外でも高い評価を得ています。
 
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