前回は、喜多川歌麿という絵師の人物像に触れつつ「ビードロを吹く娘」に施された雲母引き(きらびき)の技法をご紹介しました。
江戸の人の心を掴んだ大首絵と雲母引き。では、このふたつのアイディアをプロデュースしたと言われる名版元、蔦屋重三郎は一体どのような人物だったのでしょうか。彼がこの作品をつくった背景とは?
ビードロ生みの親 蔦屋重三郎
蔦屋重三郎は寛延三年(1750)、吉原に生まれたとされています。 江戸の中でも特に華やかな世界で育った重三郎は、吉原を訪れる人のために出版されたガイドブック「吉原細見」の販売をきっかけに出版業にも手を伸ばしていったようです。
多くの文化人が出入りする吉原という場所ではたくさんの出会いがあったのでしょう。重三郎はその環境と商才を生かして一代で「蔦屋」の店を、江戸を代表する名版元のうちのひとつに成長させたばかりでなく、現代まで残る優れた作品を多く出版しました。
蔦屋の版元印は富士山形に蔦の葉一枚。写楽や歌麿の名前の脇に見ることができます。 |
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<蔦屋の版元印> |
また若い才能を見出すことにも長けていて、特に歌麿のことは自宅に居候させて面倒を見ていた時期もあるそうです。重三郎のそうした面倒見の良さも、歌麿から良作を引き出す要因のひとつだったのかもしれません。
そして彼の「文化を育てる」という精神は、みなさんよくご存じのレンタルビデオショップが蔦屋重三郎にあやかって社名を付けたという話からもわかるように、現代においても評価されています。
厳しい改革のなかで
作品が誕生した時代は、幕藩体制の安定化を目指した幕府が市民の贅沢を禁止しようと、寛政の改革によって様々な規制をかけていた時期で、それは出版業界も例外ではありませんでした。華美な錦絵、モデルの実名が入った美人画など、浮世絵にはあらゆる禁令がかけられていったようです。特に人気版元であった蔦屋は、取り締まりの中で財産の半分を没収されるという厳しい処罰も受けたほどでした。
では、蔦屋はなぜこの厳しい状況下で歌麿や写楽などのヒット作をプロデュースし続けたのでしょうか。
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そこには蔦屋重三郎の、常に人を喜ばせるものを作ろうという版元としての情熱が感じられます。
たとえば写楽の大首絵を見てみると、使われている色の数は決して多くないことがわかります。
制作コストはかけないながらも「雲母引き(きらびき)」という新しい技術を使うことで、面白いものを作ろうという重三郎の気概が伝わってくるようです。
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<左:豊国「大星由良之助」の版木は6枚、右: 写楽「江戸兵衛」の版木は4枚。版木の少なさは一目瞭然> |
改革によって楽しみが奪われていく中で出版された、歌麿の大首絵の斬新な構図や手に取った時のずっしりとした雲母(きら)の感触に、重三郎の狙い通り江戸の人々は驚きと喜びを感じたことでしょう。 |
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<手に取ることで感じられる"雲母(きら)"の輝き> |
「ビードロを吹く娘」からみえるもの
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「アダチセレクト 話題の一枚。」第二回は喜多川歌麿「ビードロを吹く娘」をご紹介してまいりましたが、いかがでしたか? 当時の最先端の流行が画期的な技術でもって描かれた本作からは、その背景にある版元の情熱や息遣いを感じていただけたのではないでしょうか。
ぜひ、当時の人々が浮世絵に注いだ情熱を感じながら作品をお楽しみください。 |
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