絵師の筆致を忠実に彫りあげる彫師
浮世絵版画は、当時庶民が気軽に買って楽しむためにたくさん作ることが前提の出版物だったため、出版社である版元(はんもと)のもと、絵師・彫師・摺師という各職人が完全分業で制作にあたっていました。
少しでも効率よく作ることが求められたため、版元の依頼を受け、絵師が描くのは「版下絵(はんしたえ)」と言われる大変シンプルな墨一色の輪郭線だけでした。いわゆる色を塗った完成品がないのが浮世絵版画の特徴でもあります。 |
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<絵師が描く版下絵(はんしたえ)> |
その版下絵を直接版木に貼りつけ、版として彫りあげるのが彫師の仕事です。
彫刻刀の中でも刃先が鋭く、ナイフのような形をした小刀(こがたな)を巧みに使い、絵師の繊細な描線の両脇に切れ込みを入れる"彫"は、彫師の仕事のなかで最も集中力を要するところで、作品の出来を決める重要なポイントです。
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<"彫師の命"とも言える小刀(こがたな)> |
<北斎の筆致を忠実に彫る> |
小刀で線の両側を"彫"あげると、後は余分な部分を大小さまざま鑿(のみ)で"さらい"、いわゆる凸版に仕上げていきます。つまり、北斎が描いた版下絵は、木屑と共に削られてなくなってしまうのです。
まさに、北斎の繊細で緊張感のある線を活かすも殺すも、すべて彫師の腕にかかっていると言っても過言ではありません。
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<余分な部分をさらい仕上げていく> |
<彫りあがった主版(おもはん)> |
北斎の線が持つ緊張感をいかに出すか
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彫師・新實曰く、
「北斎自身、若い頃に彫師の修業をしていたということもあり、他の絵師に比べて細かいところまで描き込まれているので、彫りには高度な技術が必要です。
特に「神奈川沖浪裏」の波の線はごまかしの効かない、作品の力強さを支える重要な線でしょう。この北斎の線が持つ緊張感を出せるかどうかは、彫師の腕にかかっているので、彫るときには非常に神経が要ります。」 |
「波頭のような抑揚のある線を彫るのも、実はとても難しいんです。そもそも技術がなければ北斎の線は彫れないんですが、こういう部分は線をただそのとおり彫っているだけでは、動きが出てきません。
迫力のある画面を作るのに、どうすればその線が活きてくるか、線のもつリズムや全体のバランスに配慮しながら刀を入れていきます。」 |
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<絵師の筆致を意識して、抑揚のある線で彫られた波頭部分> |
幾度も波を描き、変幻自在の水の動きを捉えるために試行錯誤を重ね、よりリアルで人々を惹きつける波の表現と演出を追求し続けた絵師・北斎。そして、絵師が描いた線をただ単に彫るのではなく、その描線に込められた思いを読み取り、忠実に版を起こす彫師。
そうした絵師の思いや、彫師の巧みの技で生み出された「神奈川沖浪裏」だからこそ、今なお世界中の人々を魅了してやまない傑作となったのではないのでしょうか。
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