新たに始まった企画、アダチセレクト「話題の一枚」。 前回は鈴木春信の傑作「雪中相合傘」の魅力を、色彩や技法の面からご紹介しました。今回はより作品を深く楽しむために、本作が生まれた時代背景に焦点を当ててみたいと思います。 |
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皆様は、浮世絵と言えばフルカラーの華やかな多色刷りを想像されるのではないでしょうか。今でこそ当たり前の多色刷りですが、最初からこれほど水準の高い技術が完成していたわけではありません。 鈴木春信が絵師としてデビューした宝暦10年(1760年)頃の浮世絵は、ベースとなる墨の黒に、紅・草など二色程度の色で摺られた紅摺絵が中心でした。 それが劇的に多色刷りへと変化を遂げる、あるきっかけがありました。 |
<多色刷りが可能になる前の主流「紅摺絵」> |
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石川豊信「中村喜代三郎 市村亀蔵 おきく 幸助」 |
浮世絵の歴史を大きく変えたカレンダーブーム!
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そのきっかけとは明和2年(1765)、裕福な趣味人の間で流行した絵暦の交換会です。絵暦とはその名の通り一種のカレンダーで、太陰暦によって毎年変動する30日ある大の月と29日ある小の月を、絵の中に書き入れたものを指します。
それもあからさまに数字を入れるのではなく、絵柄の中に溶け込ませ、一見それと分からない判じ絵のようにしたものが好まれました。 |
<ブームとなった「絵暦」。着物の柄に数字が隠れています> |
鈴木春信 「夕立」 |
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この絵暦交換会のブームの中心となったひとりが旗本・大久保甚四郎、俳名を「巨川(きょせん)」といった人物です。 彼は他の誰よりも優れた絵暦を作り出すため、より美しく趣向を凝らした作品を求めて春信に作画を依頼すると同時に、職人達に木版画の技術を駆使させたと言われています。
その結果、巨川をスポンサーに春信や職人達は試行錯誤を重ね、それまでの色数の限られた紅摺絵とは全く異なる色彩豊かな多色刷りの「錦絵」を完成させました。彼らが作り出した新たな工夫とはどんなものだったのでしょうか。
■ 工夫その1「見当」
多色刷りに欠かせない、紙の位置を決める目印である「見当」。これを版木につけることにより、複数の色板を用いても、ずれることなく正確に色を重ねることが出来るようになりました。一見簡単なことのようですが、それまで実現が難しかった多色刷りを可能にした画期的な発明です。
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<紙の位置を決めるカギ型見当(右下)と引き付け見当(左下)> |
<紙一枚分の溝が彫ってあります> |
■ 工夫その2「和紙」
春信の作品に使われた「奉書」は、それまで使用されていた薄手の和紙よりも繊維は長く、厚手でふっくらした紙。発色が良く丈夫で、何度も版を摺り重ねても耐えられるようになりました。 |
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<ふっくらと厚みがあり発色の良い「奉書」> |
■ 工夫その3「背景 ~抽象から写実へ~」
錦絵以前の紅摺絵はあくまで人物がメインであり、背景の描写などには乏しかったのですが、錦絵になると画中に周辺の情景を細かく描き入れることで、リアリティのある表現がされるようになりました。制作技術の進歩だけでなく、絵師による作品の描き方が変わった点は特に注目です。
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<紅摺絵:背景は描かれず抽象的な表現> |
<錦絵:季節や場所を具体的に示す写実的な表現> |
「下らない」汚名を返上せよ!? 江戸っ子の心意気
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色彩豊かな「錦絵」を生み出した絵暦のブームですが、その流行を生み出した原動力とは何でしょうか。 当時の江戸では、上方(京都)で作られた「下りもの」が高級品とされ、地の物は「下らない」ものとして全く評価されませんでした。 ゆえに江戸に住む彼らは上方への強い対抗意識を抱き、上方を越える美しいもの、優れたものを作りたいという熱意を共有していたからこそ、スポンサーである富裕層はもちろん、絵師、職人までもが一体となって「錦絵」は誕生したのではないでしょうか。 |
明和4年に完成した、鈴木春信の傑作「雪中相合傘」。 上質な紙の白を柔らかな雪の表現に生かし、「空摺り」や「きめだし」といった技巧をふんだんに使い、凝りに凝った本作は正に「錦絵」の技術の集大成といえます。 今なおこの作品が人を惹きつけるのは、そこに上方を越えんとした作り手達の凛とした気概が感じられるからかも知れません。 |
鈴木春信 「雪中相合傘」 |
絵暦交換会の流行はほどなくして終わりましたが、色鮮やかで美しい絵暦に目を付けた版元がこれを製品化し一般に売り出すと、「錦絵」は江戸庶民の人気を呼び春信は当代一の人気絵師となりました。
次回は「錦絵」と共に一世を風靡した、絵師・春信の人気ぶりについて詳しくご紹介します。
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