浮世絵に描き出された富士山 ~信仰と富士~ |
今年は富士山が世界文化遺産に登録されてから10周年の節目の年です。 皆様もご存じの通り、浮世絵に数多く描かれてきた富士山。 今回は、富士山がここまで多くの浮世絵に描かれてきたその理由に迫ります。 |
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■ ‟信仰の対象"であった富士 |
「信仰の対象」であることが評価され、世界文化遺産に登録された富士山。富士山への信仰は古より存在しますが、そのあり方は時代によって、噴火への恐怖、極楽浄土への憧れ、再生への期待など様々に移り変わってきました。17世紀になると、富士山を生命の源と唱えた信仰集団「富士講」が誕生し、また、山腹や山麓の霊場をめぐる「巡拝」が広まります。この「富士講」が、江戸時代になると庶民の間でも大流行し、「講」と呼ばれる宗教的・経済的な共同組織が江戸市中に次々と誕生しました。 |
『冨獄三十六景』の中で唯一、富士登山の様子が描かれているのが、こちらの「諸人登山」。富士山頂付近の富士講の人々の様子が描き出されています。穴のような場所には人々が所狭しとうずくまっているのが見て取れます。富士の登山道にはこのような石室がいくつかあり、人々はここで休息をとっていたようです。当時の富士講ブームを象徴する貴重な一枚です。 |
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■ 富士講ブームを捉えた企画・出版! |
この「富士講」ブームを捉えて、1830年頃から版元・西村永寿堂が、北斎による『冨嶽三十六景』を企画・出版をしました。狙い通り『冨嶽三十六景』は大ヒットシリーズとなり、この人気により「富士講」熱が更に高まることとなりました。その後も「富士講」ブームは1860年のご縁年(*)に向けて更に盛り上がり、この頃に広重による『不二三十六景』(1852年)と『冨士三十六景』(1859年頃)という2つの富士シリーズが刊行されています。
*ご縁年...「富士山は紀元前301年の庚申(かのえさる)の年に誕生した」という伝説により、60年に一度の庚申の年を「御縁年(ごえんねん)」と呼び、特に富士登山のご利益が高い年とされます。
このように、北斎の『冨嶽三十六景』と広重の『不二三十六景』、『冨士三十六景』など浮世絵版画による富士山シリーズの出版は、当時の「富士講」ブームと深い関係にあったのです。
【北斎と広重の富士山の描き方】 ここで、北斎と広重それぞれの、富士山のとらえ方の違いがよく分かる2作品を見てみましょう。 |
「凱風快晴」で北斎は、"山"そのものに対峙して富士山を象徴的にとらえています。
一方の広重は、「駿河三保之松原」で、富士山の文化的背景を踏まえながら、富士山を望む景勝地に焦点を当て描写しています。
「富士山」という信仰の対象となる概念に注目し、シンボルとして富士をとらえた北斎と、神秘的な富士山を美しい景観とともに眺めたいという当時の人々の思いを反映した名所絵を描いた広重。 2人の名絵師の富士山には、それぞれの魅力が宿っています。
このほかにもオンラインストアでは、富士山を描いた浮世絵を多数ご紹介中。ぜひ、北斎と広重の富士山を比べてみてくださいね。
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