徹底解剖!世界の名画「神奈川沖浪裏」を完成させた浮世絵の技

徹底解剖!世界の名画「神奈川沖浪裏」を完成させた浮世絵の技

日本が世界に誇る浮世絵師・葛飾北斎の、いわずと知れた代表作「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」。"The Great Wave"の名で世界中で愛される本図は、今なお様々なデザインに用いられたり、オマージュ作品が制作されたりしています。そんな世界の名画「神奈川沖浪裏」は、日本ならではの木版画の技術があってこそ完成したことをご存知でしょうか。本記事では、版画制作の観点から、この名作を生み出した彫師・摺師の技に迫ります。

世界的名作「神奈川沖浪裏」の立役者 彫師・摺師

浮世絵は、当時の庶民に気軽に買って楽しんでもらうため、数多く作ることが前提の出版物でした。そのため、出版社である版元(はんもと)のもと、絵師・彫師(ほりし)・摺師(すりし)の各職人が、完全分業で制作を進めていました。

北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の制作の様子。左が摺師、右が彫師。(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

商業印刷であるがゆえに、浮世絵の制作には「より効率よく作る」ことが求められていました。版元の依頼を受け、絵師が描くのは「版下絵(はんしたえ)」と言われる大変シンプルな墨一色の輪郭線だけ。基本的にフルカラーの完成予想図が存在しないのが浮世絵版画の制作の特徴でもあります。

もちろん「神奈川沖浪裏」においても、北斎が描いたのは墨一色の輪郭線だけでした。皆さんが目にしているあの鮮やかな色合いは、北斎の創作意図を汲み取って版を起こし、摺り上げた、彫師・摺師の技術なくしては生まれえなかったのです。

北斎の筆致を忠実に再現!彫師の技に注目

絵師が描いた版下絵を直接版木に貼りつけ、版として彫りあげるのが彫師の仕事。彫刻刀の中でも刃先が鋭く、ナイフのような形をした「小刀(こがたな)」を巧みに使い、絵師の繊細な描線の両脇に切れ込みを入れる作業を「彫」と呼びます。

「彫」は彫師の仕事のなかで最も集中力を要するところで、作品の出来を決める重要なポイントです。小刀で線の両側を彫りあげると、後は余分な部分を大小さまざま「鑿(のみ)」で「さらい」、凸版に仕上げていきます。

北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の版木制作。鑿で不要な部分をさらう。(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

つまり、北斎が描いた版下絵は、木屑と共に削られてなくなってしまうのです。北斎の繊細で緊張感のある線を活かすも殺すも、すべて彫師の腕にかかっていると言っても過言ではありません。

現代の彫師が語る、北斎の線の緊張感

彫師歴50年を超える新實さん(アダチ版画研究所所属)は、北斎の線について以下のように語っています。

「北斎自身、若い頃に彫師の修業をしていたということもあり、他の絵師に比べて細かいところまで描き込まれているので、彫りには高度な技術が必要です。 特に「神奈川沖浪裏」の波の線はごまかしの利かない、作品の力強さを支える重要な線でしょう。この北斎の線が持つ緊張感を出せるかどうかは、彫師の腕にかかっているので、彫るときには非常に神経が要ります。」

数々の北斎作品の復刻を手掛けてきたベテラン彫師の新實さん。(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

「波頭のような抑揚のある線を彫るのも、実はとても難しいんです。そもそも技術がなければ北斎の線は彫れないんですが、こういう部分は線をただそのとおり彫っているだけでは、動きが出てきません。迫力のある画面を作るのに、どうすればその線が活きてくるか、線のもつリズムや全体のバランスに配慮しながら刀を入れていきます。」

鮮やかな青の濃淡で世界観を表現!摺師の技に注目

北斎が描いた版下絵をもとに、彫師が版木を彫りあげた後、その版を使って一色ずつ和紙に摺りあげていくのが摺師の仕事です。当時、多色摺の浮世絵版画は、その鮮やかな色合いから、織物にたとえられ「錦絵(にしきえ)」と呼ばれていたほど。

多くの色に囲まれて生活している現代とは異なり、江戸の庶民にとって浮世絵は、さまざまな色彩をふんだんに楽しむことのできる最高の娯楽だったことが想像できます。絵師や版元と完成イメージを共有しながら絵具を調合し、和紙の繊維の中に絵具の粒子をきめ込んでいく摺師の仕事は、浮世絵の出来を決める最後の要といってもいいでしょう。

北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の摺の作業。見当と呼ばれる目印に和紙を合わせ、色を摺り重ねていく。(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

「神奈川沖浪裏」においても色、特に青色の存在は、躍動感あふれる波を表現するのに不可欠です。本図には、アウトラインに使われている本藍といわれる渋めの青の他に、江戸後期にヨーロッパから輸入された化学的顔料のプルシアンブルー(ベロ藍)が使われています。

ベロ藍は、それまで日本の絵具にはなかった色鮮やかさで当時大変人気があり、浮世絵、特に北斎や広重の風景画に多く見られます。流行色を取り入れて庶民を楽しませようとする、当時の浮世絵のあり方が垣間見えますね。

現代の摺師が語る、北斎の青の階調

摺師の京増さん(アダチ版画研究所所属)によれば、「神奈川沖浪裏」を摺る際には、特に発色や色の調合に気を遣っているそう。

「和紙の中に絵具の粒子を「きめ込んでいく」ことが、摺るときにはとっても重要です。奉書は、しっかりとした和紙ですので、きちんと力を入れないと色がつかないんです。馬連に力をのせて摺ることで綺麗に発色させることができます。結構、体力仕事でもありますね。「神奈川沖浪裏」は、青の濃淡のバランスで波の立体感をみせるので、色の調合も気を遣うところですね。」

摺師の京増さん。浮世絵の復刻だけでなく現代美術家の版画制作も手がける。(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

北斎がイメージした躍動感あふれる波「神奈川沖浪裏」の制作工程からは、彫師・摺師の一流の技があいまってこそ、世界の名画の魅力が生まれたことをうかがい知ることができます。世界中を魅了する"The Great Wave"は、絵師・北斎の創作意図を汲んだ一流の彫師・摺師が、技の限りを尽くすことで生まれた傑作なのです。

文・「北斎今昔」編集部