渋沢栄一と江戸の木版印刷〜若き日の二つのエピソードを通じて

渋沢栄一と江戸の木版印刷〜若き日の二つのエピソードを通じて

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一。明治時代に活躍し、昭和まで生きていますが、実は生まれたのは江戸時代。浮世絵に描かれたような風景の中を生きていた人物であり、彼が生まれた時は、まだ北斎も広重も存命でした。日本の通貨制度を整備し、製紙会社を設立するなど、近代日本の印刷とも関わりの深い渋沢栄一。そこで今回は、浮世絵からは少し離れますが、若き日の渋沢栄一が触れた印刷、すなわち木版にまつわる話をまとめました。

幼い頃の栄一は北斎や広重の浮世絵を見ていたかも?

天保11(1840)年、藍玉の製造や養蚕業を営む裕福な農家の長男として生まれた渋沢栄一は、7歳の頃より従兄の下で『論語』を学んだと言います。『論語』をはじめ、若き日の栄一が情報や知識を得ていたのは、おそらく木版で印刷された版本類が中心だったでしょう。大河ドラマでは、道を歩きながら本を読むほど、読書に夢中になる栄一の姿が描かれていました。江戸時代後期の日本の識字率は非常に高く、様々な年齢・性別・身分・職業の人向けに、あらゆるジャンルの本が出版されていました。

『近世名士写真』より、晩年の渋沢栄一の肖像。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

また大河ドラマ(第2回)では、10代の栄一が、江戸に行く父の同行を許されて大はしゃぎするシーンがあります。栄一が生まれ育ったのは、中山道の深谷宿に近い血洗島。深谷から江戸日本橋までは約78km、歩いておよそ3日の距離です。10代の少年が安易には出かけられませんが、情報は比較的すぐに入ってきたはず。世界でも有数の大都市であった江戸の賑わいについては、いろんな人から聞き、想像を膨らませ、憧れを募らせていたことと思います。そしておそらく浮世絵なども、その一助になっていたと想像します。当時、手頃な価格で携帯しやすい浮世絵は、江戸土産として地方にも広まっていました。

江戸日本橋と京都三条大橋を結ぶ内陸の街道、中山道。深谷宿は日本橋から数えて9番目の宿場。
渓斎英泉「木曽街道六拾九次 第十 岐阻街道深谷之駅」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

栄一が生まれる10年ほど前には、あの葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」の刊行が始まっており、栄一が生まれた時は、北斎もまだ存命でした。ゴッホが模写したことで知られる広重の代表作「名所江戸百景」が出版されるのは、大河ドラマでも描かれていた安政の大地震の後、栄一が16歳の時のことです。

栄一が考えた、藍農家の評価システム

栄一にとって、さまざまな文化との接点を生んだ木版による印刷物。ここでは、若き栄一自身が木版印刷を活用した興味深いエピソードをご紹介しましょう。

渋沢栄一の生家では、藍染に使用する藍玉の製造と販売を行っていましたが、その原料となる藍の葉は、自分たちで栽培する他に、各地の藍農家から買い付けていました。栄一は14歳の時には、父の代行で近隣の藍農家を周り、買い付けを行っていたそうです。藍の葉の出来の良し悪しを見極められるようになってきた栄一は、やがてある画期的な藍農家の評価システムを思いつきます。

それは「番付(ばんづけ)」の作成でした。番付とは、現代で言うところのランキング。江戸時代の人々もランキング情報は大好きで、様々な番付表が世に出回っていました。中でも典型的だったのは、特定のジャンルの人や物を相撲取りに見立てたもの。人気や実力のあるものが「大関」となります。(※江戸時代の番付表の最高ランクは、横綱ではありません。)

大河ドラマ(第4回)では、藍農家の人々を労う酒宴の席で、栄一と従兄の喜作が、お手製の藍農家の番付表を発表。見方によっては傍若無人とも言えるこの大胆な行動に、場の空気が一瞬にして凍りつきますが、栽培方法を研究していた若者の努力が正当に評価され、長老格の農民が栄一たちのアイディアを称賛したことで、酒宴は大盛り上がりに。

「武州自慢鑑藍玉力競」写真は、現存する版木(個人蔵)をアダチ版画研究所の摺師が摺ったもの。(提供:渋沢史料館)

栄一が考えついたこの藍農家の評価システム、実際のところ、こんな風に最初から快く迎え入れられたかは分かりませんが、定着を見せたであろうと考えられます。その証拠となるのが、こちらの「武州自慢鑑藍玉力競」。実はこの番付表の版木が現存するのです。

有益なものを「みんな」で共有する、印刷技術の原点

版木があるということは、つまりこの番付表が複数枚印刷されたということ。この番付の情報に一定の需要があったということです。身内で回覧する程度の需要なら、多少面倒ですが、書き写せば事足りたでしょう。印刷物によって、労働に対する評価を可視化し、広く周知させることで、人々の意識を変え、意欲に繋ぐことが出来ることを、栄一はこのとき実感したのではないでしょうか。

「武州自慢鑑藍玉力競」の版木(個人蔵)。(提供:渋沢史料館)

また「武州自慢鑑」というタイトルには、武州の藍を、他の産地の藍に負けないブランドとして育てていこうとする気概がうかがえます。藍玉の販売先である紺屋の人々にも、この番付表を配布したのかもしれません。武州の藍農家が、こうして各々品質の向上に努めているのだ、ということをアピールするには格好のプレゼン資料と言えるでしょう。

北斎が描いた江戸の紺屋(染物屋)の仕事風景。作・浅草庵市人/画・葛飾北斎『画本東都遊』より(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

この「武州自慢鑑藍玉力競」には、「行司(この番付における判定役)」に栄一の名前があり、文久2(1862)年と記されています。文久2年というと、栄一は22歳。この2年後には、京都で一橋慶喜に仕えることになり、程なく関東で農兵を募る「関東人選御用掛」に命じられます。藍農家の番付表作りによって証明された栄一の才覚と人望は、一橋家の家臣となって更に発揮されていくことになります。

「武州自慢鑑藍玉力競」(部分)。行司の欄に「澁澤榮一郎(=渋沢栄一)」の名前がある。(提供:渋沢史料館)

お札の印刷も木版だった江戸時代

更に、一橋家の家臣時代に、栄一が木版の印刷に関わった事業がもう一つ。それが「藩札(はんさつ)」の発行です。藩札とは、当時、各藩で独自に発行していた紙の地域通貨。江戸時代の現金(正金)と言えば、基本的には幕府が発行した貨幣の金・銀・銭でした。全国域で使用できる紙のお金は、この頃まだ存在しません。大河ドラマ(第4回)でも、10代の栄一がずっしり重い千両箱を携えて、御用金を納めるシーンが描かれていましたね。江戸時代の現金管理は、とても大変そうです。

慶喜に仕えた栄一は、一橋家の財政を再建するべく、播州(現在の兵庫県の南部)の一橋家の領地で生産される木綿に注目し、この流通の仕組みを見直します。それまで農民たちが個々に販売していた木綿を一箇所に集めて買い取り、大阪に開いた問屋へまとめて売るようにしました。この時、農民たちに木綿の対価として渡したのが藩札です。農民たちは、引換所で藩札を現金に換金します。


各藩で発行された様々なデザインの藩札の例。大黒天や、龍、鶴亀と行った吉祥文様が用いられているものが多い。黒一色で摺ったものに朱印があるスタイルが多いようだが、色のついた紙を用いたものや、黒以外の色で摺られたものもある。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

藩札は、各藩によってデザインが異なりましたが、お札(ふだ)のような縦長の紙に、木版で文字や図柄が印刷されているものが主流だったようです。また木版とひと口に言っても、厳密には板目木版と木口(こぐち)木版がありました。板目木版と木口木版の違いは、版木の板を水平方向に取るか、垂直方向に取るか。浮世絵版画は板目木版ですが、印刷する面積は小さいものの大量生産を必要とする藩札については、木口木版を採用しているケースも多々見受けられました。

版木を彫る面の違いによって「木口木版」と「板目木版」とがある。

おそらく栄一は、この藩札の発行の際、これからの日本経済における印刷技術の重要性を痛感したことと思います。のちに海外を視察した栄一が、維新後、抄紙会社(後の王子製紙)を設立するのは、これらの経験があったからではないでしょうか。

栄一にとって印刷物とは、知の源泉であり、制度を浸透させるものであり、人々の意識を変革し、資本主義経済を発展させるものであったと思います。そして、若き日の渋沢栄一が触れてきた印刷とはすなわち、日本の木版だったのです。明治以降、木版の印刷は、徐々に機械印刷に取って代わられていきますが、江戸時代に花開いた豊かな出版・印刷文化の素地があればこそ、維新期に渋沢栄一のような多くの才能が登場したのかも知れません。

渋沢栄一の生涯を知る

本稿の執筆にあたっては、「武州自慢鑑藍玉力競」の版木の所蔵者様、並びに東京・飛鳥山の渋沢史料館の皆様のご協力をいただきました。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡地に建つ博物館、渋沢史料館では、栄一の活動を広く紹介しています。(現在、入館には同館ホームページからの事前予約が必要です。)

渋沢史料館
開館日:火・木・土曜日(2021年6月、7月 ※8月以降の予定は同館ホームページにて確認ください。)
時 間:10:00~12:00/13:30~15:30(※完全予約制
休館日:日・月・水・金曜日(2021年6月、7月 ※8月以降の予定は同館ホームページにて確認ください。)
住 所:東京都北区西ヶ原2-16-1
入館料:一般 300円/小中高生 100円
ホームページ:https://www.shibusawa.or.jp/museum/

協力・渋沢史料館
文・「北斎今昔」編集部