ゴッホの浮世絵愛があふれた、とっておきの作品5選

ゴッホの浮世絵愛があふれた、とっておきの作品5選

ポスト印象派の画家ゴッホ(1853-90)と、日本の浮世絵の深い繋がりについて解説した前回の記事が好評だったため、アートライターのかるびさんに、再び登場いただきます。今回は、ゴッホと浮世絵の関わりが特によくわかる作品をピックアップ。色彩や構図が浮世絵風の作品から、実際に画面内に浮世絵が登場する作品まで、ユニークな5作品を掘り下げてご紹介していきます。

ライター紹介 かるび(@karub_imalive 
40代にして、コネも実績もない中、脱サラしてブロガーを経てライター業へ転身し、満5年が経過。現在は主夫業と兼業でライターとして活動中。各種Webメディアへの寄稿や書籍執筆、プレスリリース作成や展覧会公式SNSなど、アート系を中心とした「書く」仕事をやらせていただいています。 主な寄稿先は「和樂web」「楽活」「藝大アートプラザ」など。『名画BEST100』(永岡書店)『モネへの招待』『ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント完全ガイドブック』(朝日新聞出版)では主要ライターとして執筆を担当させていただきました。

描かれた人物の背景は浮世絵だらけ?「タンギー爺さん」

フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さん》1887年 油彩、カンヴァス
ロダン美術館蔵 © Musée Rodin(引用元:Musée Rodin)

浮世絵が大好きだったゴッホは、自画像や肖像画などの背景に、しばしば浮世絵作品を描き入れました。中でもこの「タンギー爺さん」では、背景が浮世絵づくし。ある意味ゴッホの究極の浮世絵愛を示したような作品となっています。

描かれているのは、ゴッホがパリ時代に懇意にしていた画材屋の主人ジュリアン・タンギーです。持ち前の博愛精神で、印象派などの若き前衛画家たちを支援し「タンギー爺さん」と呼ばれて慕われていました。当時金銭的に不自由だったゴッホもまた、自作との物々交換で絵筆や絵具をタンギーから手に入れていました。

ちなみに、タンギーの店では、浮世絵は取り扱っていませんでした。にもかかわらず、タンギーの背景にわざわざ浮世絵を描いたのは、慈愛の精神で芸術家たちを支援するタンギーの姿勢に、ゴッホの理想郷である日本で暮らす人々の姿を重ね合わせたからではないか、とも言われています。タンギーは、ゴッホがパリから離れて南仏に旅立った後も彼のことを気に掛け続け、数年後にゴッホがパリ近郊で早逝したときも、パリからゴッホの葬儀に駆けつけたほどでした。

習作を重ね、たどり着いた納得の自信作「種まく人」

フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》1888年11月 油彩、カンヴァス
ファン・ゴッホ美術館蔵 ©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

ゴッホには、レンブラントやドラクロワなど、特にお気に入りとしていた西洋美術史上の巨匠が何人かいました。そのうち、最も心酔していた画家が、元祖「農民画家」と呼ばれ、ゴッホよりも約30~40年前に活躍したジャン=フランソワ・ミレー(1814-75)です。

画家を志す以前から、貧しい人々の生活に共感を覚えていたゴッホは、農民の清貧な生活風景を描くミレーが大好きでした。特にミレーの作品の中でも好きだったのが、畑にソバの種を撒く農民の立ち姿を描いた「種まく人」(参照:ジャン=フランソワ・ミレー「種まく人」1850年 ボストン美術館蔵)でした。

ゴッホは、ミレーの「種まく人」を模写するだけでなく、同作からインスピレーションを得て自分自身の「種まく人」を描き続けました。中でも有名な作品の一つが、南仏アルルに滞在していたとき、いくつかの習作、実験作を経て描かれたこちらのバージョン。

逆光を背に、農夫が麦畑に種をまく姿を描いているのですが、非常にユニークな構図だと思いませんか? 特に、手前に大きくクローズアップして描かれたりんごの木は、歌川広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」によく似ているような気もしますね。

(左)歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」1857年 木版画
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く梅の木、広重作品模写》1887年10-11月 油彩、カンヴァス
いずれもファン・ゴッホ美術館蔵 ©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation) 

また、濃紺で描かれた農夫の頭上には、不自然なほど大きい太陽が。ありえない大きさです。当然、実景よりも相当大きく描かれているでしょう。写実へのこだわりよりも、画家にとっての主観的な印象を優先しているのです。こうしたデフォルメ描写も、浮世絵に相通じるところがあります。

さらに、背景に黄色い空を描き、大地に青を配置するなど、大地と空の色彩を入れ替える大胆な配色や、人物や木の陰影がほとんど描かれず、太い輪郭線を用いて平面的に描かれていることなども、浮世絵からの影響を感じられるポイントかもしれません。

キャンバスサイズに拡大模写!浮世絵を徹底的に研究した作品

(左)歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」1857年 木版画
(右)フィンセント・ファン・ゴッホ《雨の大橋、広重作品模写》1887年 油彩、カンヴァス
いずれもファン・ゴッホ美術館蔵 ©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

西欧を席巻したジャポニスムブームの中で、多くの前衛画家たちが日本の浮世絵からインスピレーションを得て作品を手掛けましたが、油絵で浮世絵を模写して(たとえ習作レベルであっても)キャンバスに描いた作品を残したのは、ゴッホだけでした。

しかも、模写の方法も非常に力が入っています。あらかじめマス目を引いたトレーシングペーパーを用意して、まず作品全体の輪郭を写し取ります。次に、マス目の部分ごとに、少しずつ正確にキャンバスサイズへと拡大転写することで、構図を正確に捉えようと努めました。(参照:フィンセント・ファン・ゴッホ「広重作、亀戸梅屋舗のトレース素描」1887年 ファン・ゴッホ美術館蔵)本作でも、雨の黒い線1本1本に至るまで、原本を写し取ろうとしていることがわかります。

ただし、ゴッホの場合、構図は同一でも、タッチや色彩は自己流を貫きました。よく見比べてみてください。模写された隅田川の川面はエメラルドグリーンに、対岸のシルエットは濃紺で描かれるなど、原作に縛られないビビッドな着彩が目立ちます。また、橋の橋脚はより立体的に表現され、川面は厚塗りによって波の表情が付け加えられています。

さらに注目したいのが、作品の周囲に描きこまれた「額」の部分。下手くそな(失礼!)漢字が、緑地に赤で、絵の四方を取り囲んでいます。漢字の読めないゴッホには、漢字が一種の装飾のように見えたのでしょうか? 意味もわからず、見よう見真似で異国の文字を必死に描こうとしたゴッホの執念が感じられます。

どことなく北斎テイスト?! ゴッホが描いた珍しい海景画

フィンセント・ファン・ゴッホ《サント=マリー=ド=ラ=メールの浜辺の釣り船》1888年6月 油彩、カンヴァス
ファン・ゴッホ美術館蔵 ©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

素描や水彩画も含めると、生涯で約2,000点の作品を残したゴッホですが、意外なことに「海辺」をモチーフとして描いた作品はほとんど残されていません。というのも、ゴッホはこうした「ばえる」絶景や景勝地にはほとんど興味を示さなかったからです。ゴッホが何よりも描きたかったのは、麦畑やオリーブ園で農夫が汗水垂らして働く日常であったり、身近な人々を対象とした人物画でした。

それでも、ゴッホは生涯で1度だけ海辺の画題を求めて、海岸沿いへと足を伸ばしたことがありました。それが、1888年6月の小旅行です。ゴッホは、南仏アルルから近い地中海沿岸の漁村サント=マリー=ド=ラ=メールへと出かけました。同村は、ロマの人々の守護聖人サラが祀られ、毎年定期的にヨーロッパ中のロマが立ち寄る巡礼地です。ゴッホは、人々が夢中になる海辺の巡礼地をひと目見たくなり、小旅行へとでかけたのです。

そこで描かれたいくつかの作品のうち、浮世絵版画に雰囲気が近いのが本作「サント=マリー=ド=ラ=メールの浜辺の釣り船」や、その制作のための素描です。くっきりとした輪郭線、ビビッドな色彩で単色に塗られた船や海の風景、陰影をほぼ描かず平面的に処理された構図、余計なモチーフを削ぎ落としたシンプルな画面…等々、浮世絵へのリスペクトがあふれる作品。規則正しく並び、幾何学的な曲線で描かれた釣り船は、どことなく北斎風でもあります。

ちなみに、浜辺の船(手前から3艘目)の船体には「AMITIE」(フランス語で“友情”という意味)という文字が描きこまれています。画面内に文字情報を描きこんでしまうあたりも、浮世絵からの影響が感じられませんか?

「浮世絵」が最後に登場する記念碑的自画像作品

フィンセント・ファン・ゴッホ《耳に包帯をした自画像》1889年 油彩、カンヴァス
コートルード美術館蔵 © The Courtauld, London (Samuel Courtauld Trust)(引用元:ART UK)

ゴッホは、浮世絵の中に描かれた日本や日本人像に、ある種の理想郷を見出していました。ですが、さすがに日本に行くことはできません。そこで彼は、太陽が強い陽射しで照りつけ、光あふれる南仏プロヴァンス地方に日本と同じ「匂い」を感じ取り、1888年初春、パリから南仏アルルへと移住します。

南仏の地で、ゴッホは画家仲間と共同生活をしながら画業に邁進する、修道院のようなアーティストコロニーを作ることを夢見ました。しかし結局、彼の構想に応じてアルルへやってきたのは、ポール・ゴーギャン(1848-1903)ただ一人だけでした。そしてゴーギャンとの共同生活も、性格や方向性の不一致から、わずか2ヶ月半で瓦解。精神を病み錯乱したゴッホは、自らの耳を切り裂いてしまい、地元では狂人扱いされるに至ります。

本作は、彼が傷ついた耳の療養のため入院していた時期に描かれた自画像。なにか達観したような、淡々とした表情ですね。耳に包帯が巻かれ、痛々しい姿が印象的ですが、背景には浮世絵版画が壁に掛けられています。

パリで浮世絵と運命的な出会いを果たしてから、同時代の画家の誰よりも浮世絵を熱心に愛したゴッホ。しかし、彼の作品に浮世絵が登場するのは、本作が最後となります。ゴーギャンに逃げられ、画家が集う夢の共同体を作るという目標が幻に終わってしまったことで、ゴッホの中で理想郷・日本への思いも醒めてしまったのでしょうか。

以後、ゴッホは亡くなるまでの約1年半で、自らの作品に浮世絵をモチーフとして使うことは2度とありませんでした。そういう意味で、本作の背景にぼんやりと描かれた浮世絵は、夢破れたゴッホが、自らが信じたユートピアへの惜別を表現したものなのかもしれませんね。

まとめ

フィンセント・ファン・ゴッホ(左)《画家としての自画像》1887年12月-88年2月
(右)《花魁、英泉作品模写》1887年 油彩、カンヴァス いずれもファン・ゴッホ美術館蔵
©Van Gogh Museum, Amsterdam(Vincent van Gogh Foundation)

浮世絵を通して日本にあこがれ、浮世絵を模写することで、浮世絵のエッセンスを自家薬籠中の物としたゴッホ。残念なことに、彼が浮世絵の中に見出した「理想郷」に辿り着くことはありませんでした。しかし、彼が浮世絵から得た数々の学びは、その後晩年に至るまで作品の中でしっかりと息づいていくことになります。

ゴッホは、書簡の中でこのように語っています。「僕のすべての仕事は、言わば日本人の上につくられている。(中略)日本の芸術は祖国では廃れてしまったが、フランスの印象主義に新たに根を張っているのだ。」

まさにこの言葉通り、ゴッホの作品には、どれも浮世絵が深く根付いています。本稿では、ゴッホと浮世絵の関わりを強く象徴づけるような作品を5作品選んで紹介してみました。しかし浮世絵の影響を強く感じられる作品は、まだまだ山ほど残っています。ぜひ、展覧会などで作品を鑑賞する機会があれば、ゴッホと浮世絵の関係性に思いをはせながら鑑賞してみてくださいね。

協力 ファン・ゴッホ美術館

編集 「北斎今昔」編集部
※本稿掲載のゴッホ作品のうち、ファン・ゴッホ美術館所蔵品の邦題については、ルイ・ファン・ティルボルフ著『ファン・ゴッホと日本』(ISBN 90 6153 645 6, EAN 978 90 6153 645 1, D/2006/703/21)を参照しました。