タラ夫の浮世絵工房訪問記〜受け継がれる木版の技〜

タラ夫の浮世絵工房訪問記〜受け継がれる木版の技〜

皆さんは2017年に東京都美術館で開催された展覧会「ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル『バベルの塔』展」の元マスコットキャラクター「タラ夫」をご存知でしょうか? タラ夫は、オランダの画家ピーテル・ブリューゲルⅠ世の銅版画から抜け出てきた、二足歩行する魚のキャラクターです。アートファンの圧倒的な支持を得て「バベルの塔展」が終了したのちも、そのパペットが全国各地のアートスポットに出没し、さまざまなジャンルの展覧会情報をtwitter上で紹介しています(@2017babel)。今回そのタラ夫さんが、伝統的な浮世絵版画の制作技術を受け継ぐ職人たちの工房を訪問しました。

版画はチームワークで生まれる芸術

2017年、65万8250人を動員した「バベルの塔展」(2017年4月18日~7月2日 東京都美術館、7月8日〜10月15日 国立国際美術館)。このマスコットキャラクターとして誕生したのが「タラ夫」です。キモカワいいその姿は、ピーテル・ブリューゲルⅠ世の銅版画の作品の片隅に描かれた二足歩行する魚がモチーフになっています。

 

タラ夫はまたたく間にtwitter上で人気を博し、その後、パペット(タラ夫2.0)、着ぐるみ(タラ夫3.0)と展開。多くのアートファンにオンライン/オフラインの双方から展覧会の魅力を発信しました。「バベルの塔展」が終了し、展覧会広報の役割を終えたタラ夫のtwitterアカウントは、その後も全国各地のアートスポットに出没し、さまざまなジャンルの展覧会情報を発信し続けています。キャラクター誕生から5年を迎えて、フォロワーは現在2.2万人。

そんなタラ夫が、先日サントリー美術館でスタートした「大英博物館 北斎 ―国内の肉筆画の名品とともに―」の会場を訪れました。ロンドンからやってきた北斎の名品を堪能した後、会場出口でふと目に留まったのが、現代の職人たちが制作した復刻版の浮世絵。

 

スタッフ「いらっしゃいま……あ、タラ夫さん! いつもtwitter拝見してます!」

タラ夫「ありがとう〜。この『復刻版』というのはどういう意味?」

スタッフ「復刻版浮世絵は、江戸時代と同じように版木から制作している木版画です。タラ夫さんのご出身は、オランダの銅版画でしたよね?」

タラ夫「16世紀に活躍したピーテル・ブリューゲルⅠ世の『大きな魚は小さな魚を食う』という作品がモチーフだよ」

スタッフ「確かその作品も、原画を描いたのはブリューゲルで、実際に銅版画をつくったのは別の人だったかと」 

タラ夫「そうそう、版画にしたのはピーテル・ファン・デル・ヘイデンっていう人だよ」

スタッフ「浮世絵の場合、版画を制作した人の名前はほとんど伝わっていないんですけど、会場に展示されていた版画作品も、北斎が描いた下絵をもとに、彫師(ほりし)・摺師(すりし)と呼ばれる職人が共同制作した木版画です。その制作技術が現代まで受け継がれていて、ここに並んでいるのは現代の職人がつくったものになります」

タラ夫「今も浮世絵をつくる職人さんがいるんだ…!」

スタッフ「はい。5月14日には、こちらの美術館の6階の会場で、職人によるデモンストレーションも行う予定です。ただ受付はもう締め切っていて……あ、もしよかったら、私たちの工房にいらっしゃいませんか? 通常は非公開ですが、フォロワー2万人のインフルエンサー(←ここ重要)なら喜んで! ぜひ伝統技術の継承に日々励む若い職人たちに会いにきてください」

タラ夫「面白そう! タラ夫は日本の伝統文化を守る若者も応援するよ!」

こうしてタラ夫さんは伝統木版の制作技術を受け継ぐ版画工房・アダチ版画研究所を訪問することになりました。

絵師の描いた線を忠実に再現する彫師の仕事

2022年4月某日、東京都新宿区にあるアダチ版画研究所を訪れたタラ夫さん。まずは彫師の仕事場にお邪魔しました。

アダチ版画研究所の彫師の仕事場。(撮影:アダチ版画研究所)

タラ夫「はじめまして、タラ夫です」

彫師「はじめまして、彫師の岸です」

タラ夫「あ、それは北斎の波の絵!」

彫師「はい。今日はこの北斎の『神奈川沖浪裏』の制作の工程をご覧いただきながら、お話ができれば」

 

タラ夫「今それは何の作業をやっているところ?」

彫師「小刀(こがたな)を入れています。北斎の描いた下絵の線の両側に小刀の刃先を入れていって、後で不要な部分を鑿(のみ)でさらいます。表面上はあまり変化が見えない作業ですが、我々の彫りの仕事で一番重要な仕事です」

タラ夫「すごく細かい作業だけれど、版木を一枚彫るのにどのくらい時間がかかるもの?」

彫師「この作品の主版(おもはん ※輪郭線部分の主要な版木。)だと、ひと月弱かかります。北斎の場合は、描き込みの密度が高いので、他の絵師の作品に比べて時間がかかります。北斎の線は、上手いだけでなく非常に個性的なので、とても神経をつかいますね。彼自身、若い頃に彫師の修行をしていて、彫師への要求も高かったんだろうと思います」

岸「タラ夫さん、見えますか?」タラ夫「どれどれ…」(撮影:「北斎今昔」編集部)

タラ夫「見たことない道具がいっぱい」

彫師「彫師の使う道具は、小学校の図工で使用する彫刻刀とは違いますね。一人一人手の大きさも違いますから、小刀も鑿も、みんなそれぞれ自分用に調整して、手入れして使い込んでいます」

タラ夫「何年くらい修行を積んダラ一人前になれるの…?」

彫師「個人差はありますが、年季明けの目安として、彫は七年、摺は五年と言われています。伝統木版の業界は高齢化が進んでいますし、いま個人で請負の仕事をしている職人さんは、若手を育てる余裕まではなかなかありません。こうして複数名の彫師・摺師が一つ屋根の下に揃って仕事をする工房スタイルで技術を継承しているケースは限られますね」

タラ夫「世界中の美術館・博物館にある浮世絵が、江戸時代のいろんな職人さんたちがつくったものだと思うと感慨深いなあ」

タラ夫「とても細かい作業だから、水の入ったフラスコを使って手元を明るくしているんだって」(撮影:「北斎今昔」編集部)

寸分の狂いなく色を重ねる摺師の仕事

続いては摺師の仕事場です。

アダチ版画研究所の摺師の仕事場。(撮影:アダチ版画研究所)

タラ夫「おじゃまします、タラ夫です」

摺師「摺師の長沼です、どうぞそちらへ。今日は『神奈川沖浪裏』の版木を摺りながら、摺師の仕事をご説明しようと思います」

長沼「タラ夫さんも、試しに摺ってみますか?」 編集部「顔面で浮世絵摺る感じになるんですかね?」タラ夫「……」(撮影:「北斎今昔」編集部)

摺師「縦構図の作品でも横構図の作品でも、版木はこうして横に置きます。木目と和紙の目の方向を揃えて、ばれんも竹皮の筋目に沿って左右に動かすのが基本です」

タラ夫「ばれんにも動かし方が…!」

摺師「目の向きが重要になるのは、僕たち摺師の技術が、和紙の繊維の中に絵の具の粒子をきめ込むものだからです。他の印刷は絵の具に接着のための素材を混ぜて表面に定着させますが、日本の伝統的な木版画は基本的に絵の具を水で溶くだけです。不純物がなく、和紙の中に入り込むので、素材本来の鮮やかな発色を楽しめるんです」

タラ夫「江戸時代の浮世絵の色があんなにきれいなのは、摺師の特別な技術があるからなんだ」

摺師「いま摺ったものを触ってみてください。紙の表面に絵の具が残っていないので、指につかないですよ」

タラ夫「本当だ!」

 

摺師「和紙は両手の二本の指で挟んで、版木に付けてある見当(けんとう)という目印に紙の角と長い方の辺を合わせます。僕たちは通常、100枚、200枚といった単位で作品を摺っていきますが、水分を含んだ和紙や版木の伸縮をコントロールしながら、何色摺り重ねても図柄がずれないようにしていきます」

タラ夫「200年前の北斎の浮世絵が美術館で見られるのもすごいことだけれど、それをつくった技術が今日までこうやって受け継がれてきているのもすごい!」

摺師「階下の展示場で、僕たちがこれまでに制作した作品を展示しているので、ぜひご覧になっていってください。この技術を応用して、現代の作家さんの木版画作品も制作しています」

タラ夫「図工の時間が懐かしいばれんも、プロ仕様はまるで違うなあ」(撮影:「北斎今昔」編集部)

技術継承の取り組み

工房見学を終えて、アダチ版画研究所の工房の階下にある展示場にも立ち寄ったタラ夫さん。

スタッフ「タラ夫さん、工房見学いかがでしたか?」

タラ夫「浮世絵版画、奥が深い…もう一度、サントリー美術館に展覧会を見に行かなくちゃ! それにしても、若い職人さんが多くてびっくり…」

スタッフ「はい。伝統の技術と、それを受け継ぐ若い職人たちがいることを、もっと多くの方に知っていただきたいと思っています。実際に職人の技術を見ていただく実演会などの機会はもちろんですし、伝統の技術によって制作した版画作品を多くの方にご覧いただけるよう、この展示スペースでは企画展なども行っています」

タラ夫「いろんな人に知ってもらいたいね」

アダチ版画研究所目白ショールームの現在の展示

スタッフ「アダチ版画研究所では平成6年に財団を設立して、後継者の育成に力を入れています。職人を志す若者に向けた研修制度を設けていて、いま工房にいた職人たちも、ほとんどがこの研修制度の修了生なんです」

タラ夫「浮世絵は江戸の大衆文化の中で生まれた日本美術だけれど、その技術は今も多くの人に支えられているんだね。今日はとっても楽しかったです。ありがとうございました!」

タラ夫さんが訪問したアダチ版画研究所、工房は非公開ですが、展示場は誰でも気軽に見学することができます。職人の使う道具などの資料展示も。ぜひ行ってみタラ?
タラ夫さんの一連の工房訪問ツイートはこちらから(動画あり)

アダチ版画研究所
住 所:東京都新宿区下落合3-13-17
時 間:火〜金曜日 10:00~18:00/土曜日 10:00~17:00
定休日:日・月曜日、祝祭日
お問合せ:03-3951-2681 
公式サイト:https://www.adachi-hanga.com/

現在、復刻版浮世絵による企画展「北斎が極めた『自然の表現』」開催中


文・「北斎今昔」編集部
協力・タラ夫(@2017babel